続きをもっと見たくなる
原題 Mies vailla menneisyyttä
監督 Aki Kaurismäki
製作 2002年 97分
出演
Markku Peltola 記憶をなくした男
Kati Outinen Irma
Juhani Niemelä Mr.Nieminen
Sakali Kuosmanen Anttila
Esko Nikkari 銀行泥棒
2002年、フィンランドのベスト映画。人生の悲哀を淡々とつづりながらもクスリとさせるギャグを盛り込むアキ作品の真骨頂をみせる。ラストシーンも実に心温まるではないか。あ、これで終わりだと理解しつつも、もう少し続きを見たいと思わせる。作品が映し出す情景はいつもながらに50~60年代と感じさせるもの。こうした一連の映像美に憧れてフィンランドに来たらとまどうだろうな。
さて、役に立たない解説をひとつ。主人公(Markku Peltola)の身元照会を求めた夕刊紙に記された発行年1996年。同年を時代設定とするなら、ヘルシンキ駅のプラットフォームに屋根があるのはおかしい。その施設は2000年の完成だから。
次はちょっとまともな解説。とあるレビューで本作中の「『お母さんはどうした』というセリフが引っかかる」という書き込みがあった。主人公が自宅に戻り、奥さんに再会するシーンでのこと。フィンランド語で見ていれば誤解の余地はないはずだが、日本語字幕が間違っているのだ。レビュー氏はその誤訳に基づいて意味を深読みしたために混乱したのだろう。
主人公はここで「おかあさん家にいる?」と聞いているのだ。「お母さんはどうした?」と大差ないと思うかもしれないが、妻のセリフを聞けばすんなりと飲み込める。彼女はこう答えている(意訳)。
「相変わらず皮肉屋ね」もしくは「あなたのお世辞は相変わらず意地悪ね」。
つまり主人公は妻に対して「あなたはとっても若いね」と冗談を投げかけたのだ。「お嬢ちゃん、僕の奥さんを呼んできて」といったニュアンス。このセリフは彼を出迎えた女性が自分の妻かどうかに確信がない、彼には過去の記憶がないということを改めて示してもいる。ここで妻の名前を呼んだり、安否を問うようなセリフだったらぶち壊しである。セリフの少ないアキ作品だけに、それぞれの発言には重要な意味があるのだ。したがって同レビュワーが「お母さんはどうした」というセリフに引っかかっても不思議はないが、誤訳から意味を引き出そうとしても理解できないのも当然のことだ。したがってこのセリフが「記憶をなくしたふりをしている」という別レビュワーの解釈もまた見当違いといわざるを得ない。
日本語タイトルの「過去の無い男」は直訳だけど、それ以外は考えられないといってもいいだろうな。英語タイトルのThe man without a pastを拝借しただけのことだろうが。
なお、本作は1996年のKauas pilvet karkaavat(邦題=浮雲)、2006年のLaitakaupungin valot(同・街のあかり)と合わせてSuomi-trilogiaとまとめられている。フィンランド三部作(トリロジー)という意味だ。これが日本語だと「敗者三部作」となるのはどういうわけだ。あんまりじゃないか。