現代の感覚で判断するのは全く無意味
「ナマコを最初に食べた人は勇気がある」などという言い回しがある。雑談と承知の上で「いや、蜂の子のほうがきついだろう」、「タコだって相当なもんだよ」と、会話を弾ませるなら文句をいう筋合いはないが、真剣にそう思っているとしたら思慮が足りなすぎる。「パンがなければお菓子を食べればいい」現在の感覚で古代人の食習慣を判断して何になるというのか。太古の食料事情では、美味しそうだから食べる、不気味だから口にしない、などという余裕があるわけがない。身の回りのものはすべて、どうにかして食べるのが最優先事項であったはずだから。また、当時の人々がナマコの外見に嫌悪感を覚えたかどうかすら分からないではないか。
肉食に馴染んだ我々だって、生きている牛を見て「オイシソー」と思いはしない。それどころか、牛肉が食卓にのぼるまでの過程を考えたら食欲をなくすでしょ。
ナマコを初めて食べた人の勇気を賞賛するのなら、牛肉を初めて食べた人(々)も同じように評価すべきだ。何千年前のことか知らないが、「はじめて」の牛肉は霜降りステーキ300gが切りそろえて差し出されたわけではない。自ら捕まえたのか、あるいは死肉をおそるおそる口にしたのだろうか。いずれにせよ、それが食えるという保証はなかったのだから、必要に迫られていたとはいえ、なにがしかの決意が求められたはずだ。
いっぽう、特定のキノコ、かつて食べたことのないキノコを初めて食べた人については状況が若干異なる。もちろん古代にあってはキノコもナマコや虫・牛同様、食べるか否かを選り好みできたわけではない。とにかく食べなければならない。そして実際に食べてきた。
しかしキノコには毒キノコというものがある。キノコ食が定着したあとでも、毒キノコの犠牲者が少なからずいたことは間違いない。発熱や嘔吐はもちろん、時には死にいたることも。
そうした集団的経験を通じて、キノコには食べてよいものと悪いものがあることが知れ渡っていったわけだ。あれはOKだが、これはダメ、と。「太郎さんの採ってきたイグチは美味しかったけど、太平さんは似たようなのを食べて死んじゃった」という実話(タイヘイイグチ)があるわけだから、初見のキノコを食べざるをえないときには慎重に対処したことだろう。たとえばシイタケは常食していた人々がナメコを初めて見たとき、「これもキノコのようだが、果たして食えるのか(毒はあるのか)」と悩んだはずだ。
そこを一歩踏み出したのは、食べて死ぬか食べずに死ぬかといった極限状態だったからかもしれない。まさか死ぬまいと楽観していただけかもしれない。ナマコにしても、本当のホントに最初に食べた人は毒性を疑った可能性もあるが、その賭けは一回で終了。ナマコに毒はないことが分かり、以後は食用OKが共通認識となった。
しかしキノコの場合、毒の有無は個別に判断しなければならない。さらに普通はダメだが、こうすれば(煮る・焼く・干す等)食える、という知識や工夫も求められる。これは万人にできることではない。先駆者が必要だ。
ある種の毒キノコを最初に食べたのが誰だったか分かるはずがないが、その人がどうなったかは断言できる。死んだか激痛に襲われたのである。で、それを見たその他大勢は先駆者に感謝したか馬鹿にしたかはわからないが、「このキノコは毒」という知識を蓄えることができたのである。
現代では未知のキノコを食べるのは愚かな行為でしかないが、古代では必ずしもそうではない。必要に駆られ、もしくは無謀、楽観、偶然等々の要素とともに、口にしてきた。
現在のキノコ食は、こうした無数の犠牲者の上に成り立っているのだ、と言っても大げさではなかろう。
ナマコもキノコも、古来の人々は「勇気を出して」食べたわけではない。