Näkymätön Elina:クラウス・ハロのデビュー作

あの沼に行けばお父さんに会える。二人だけの場所

監督 Klaus Härö
製作 2002年 74分
出演
Natalie Minnevik …Elina 主人公
Bibi Andersson … Tora Holm 女校長
Marjaana Maijala…Marta 母
Henrik Rafaelsen… Einar Björk 新任教師Tind Soneby … Irma 妹
Björn Granath … 冒頭の医者

小説でも音楽でも、デビュー作には作家の可能性が集約されていると評されることがある。本作もその通りで、その後に「泣き」の作品を公開し続けるクラウス・ハロの原点を見ることができる。主人公の切ない胸のうちを美しい風景に溶け込ませるのも共通点の一つ。

スウェーデン北東の町トルネ谷という村落が舞台。なぜ1952年のできごとなのかの説明はないが、主人公Elinaの父親の死因である結核が脅威だった時代、学校の規制が厳しかった時代といった背景が必要だったためだろうか。

トルネ谷というのは川を隔てればフィンランド、という国境沿いの村。200メートルほどの橋をわたって両国を歩いて行き来することもできる。19世紀初頭まではフィンランドの領土であったこともあり、同地にはスウェーデン国籍でありながらフィンランド語を母語とする少数派もいる(いた)。冒頭の背景に映る丘はHaltiかな? かろうじてフィンランドを示すため?

少女エリナ(およびその家族)もその少数派に属する、はずなんだけど、なぜか第一言語はスウェーデン語。時代設定といい、こうしたちょっと意味不明な部分があるのもハロ作品に共通する点である。

さて、結核治療のために学校を長らく休んでいたエリナがようやく復学する。その初日、いかにも高慢な校長と顔合わせするが、これがスウェーデンの国際的女優、ビビ・アンデショーン。彼女は教師でもあり、エリナの授業を担当する。しかし二人のそりが合わない。校長は厳格一途。校内での会話はスウェーデン語のみを強制。左利きの生徒に対しては鉛筆を右手に持ち替えさせるし、フィンランド語を話した生徒は昼食抜きの処罰を与えたりする。まったく嫌な奴だが、それが子供たちの豊かな人生を築くという信念に基づく行為なのである。50年代にはフィンランド、スウェーデンでも体罰上等! だったんですね。

50年代のスウェーデンの小学校

そうした中、スウェーデン語が苦手な同級生をフィンランド語で助けたことから関係は悪化していく。傷心のエリナは、かつて父と歩いた沼地をたびたび訪れるが、そこでは亡き父と会話ができるのだ。しかしその辺りには底なし沼があり、母親には強く禁じられている場所だ。お、ここでなんか起きるな、と推測できる。

ある日「いい先生」が赴任してくる(二枚目)。生徒に溶け込もうと努める好青年で、校長とは大違いだが、エリナの心を開かせようという彼の努力もなかなか実を結ばない。

いっぽう、女校長のエリナへの対応は冷たさを増し、謝罪を求める事態に発展。ここまで、特別な問題行動はないので、これは理不尽な要求だ。「謝れば許してやる」という扱いにエリナは沈黙し、怒った校長は「もうあんたはいないもの(タイトルのNäkymätön=見えない存在)にするよ」と言い捨てて教室に入る。教師によるいじめ。耐えきれなくなったエリナ教室を飛び出し、父と心を通わせる場所である沼地へ向かう。当然の展開として底なし沼にはまりこむ。妹の知らせで母親、続いて「いい先生」が現場に急いで救出に成功する。

最終的には女校長が折れ、いままでの態度をエリナに謝ってハッピーエンド。そんなうまい話があってたまるか、という気にならないのは、わざとらしさがないためだろう。エリナは父の墓に「さよなら」を告げる。沼からの救出は、今は亡き父と決別する機会でもあった。もう幻想の会話はしない、これからは現実を直視して生きていくという決意につながったのだ。
素直に感激できる名作だと思う。

哀しいときはお父さんに思いを告げる

ただこれ、スウェーデン映画じゃないのかね。俳優、クルーのほとんどがスウェーデン人。撮影地はスウェーデン内。監督はフィンランド人だけど、たとえばレニー・ハーリンの「ダイハード2」をフィンランド映画だとは誰も言わないよね。

どうでもよいことだと思うだろうが、タイトルについて考えると意味を持ってくる。フィンランド語タイトルを直訳すると「見えないエリナ」。これがSF映画だったらNäkymätönは「透明人間」という意味合いになる。

スウェーデン語は分からないのだが、そのタイトル「Som om jag inte fanns」を単語単位で調べてみると、英語タイトルの「As If I Wasn’t There」と同じである。これは校長がエリナに投げかけたセリフだから、スウェーデン語タイトルこそが正しいことになる。とはいえ、エリナを存在しないように扱うのは校長だけ、それも1シーン、数分に過ぎない。つまりタイトルとしては大げさすぎる。もっとも、この映画は同名の小説を基にしているので、原作ではエリナが「透明人間」として扱われ、いじめられる描写が長いのかもしれない。

なお、本作のセリフはほとんどスウェーデン語で、それをフィンランド語字幕で見たので果たして正確な訳であるかどうかは判断できない。しかし、それを差し引いても様々な想像を誘うほどに面白い作品でした。

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